時間拘束系の仕事に間ができたので、
懸案になっていた、既に読んだ本の、
気になったポイントをまとめる作業をすることにした。
すごくたまっていたのだ。
最初はうんざりしながらやっていたのだが、
再びポイントを読み返したりすると色々と気づきも湧いてくるので非常によかった。
その中でも心に残ったものの一つが、
「愛する能力」と「愛される能力」は別、という言葉だ(セリグマンより)。
これは妙に腑に落ちてしまった。
自分からみてこの双方をバランスよく持ちあわせている人は多くはないなと感じるからだ。
大抵どちらかに寄っているように思える。
友達の夫婦や恋人達を見ても、仕事の仲間後輩を見てもどちらかに寄っている気がする。
(たまに双方がバランスよく無い人も軽く見かけるが言及するのはよそう)
これが出生時から利き手の様に決まっているのか、
幼少期に強弱が形成されるかはわからないが、
人生はこれにより進む道が大きく影響を受けるような気がした。
ちなみに自分は「愛する能力」の方が上だろう。
愛している時は気が楽だが、愛されている時は妙に落ち着かない。
「本当に愛してくれているのかな?」「いつまで愛してくれるのかな?」
と根拠無く疑ってしまう。
若いときは無条件に信じられる愛は母親の愛情位だったかもしれない。
(考えてみるとそれがあるだけでも本当にありがたい話だ。)
これが自分の人生に影響を当然及ぼしている気がする。
学生時代の恋愛事情を考えても、告白されてまともに交際した記憶がとんとない。
(ちなみにこんな自分でも告白されたことはありますよ。一応ね。)
告白はたいてい断っていた。
OKでも振られても(こっちの方が多い)
自分が最初に愛する事なくして自分の恋愛は成立しなかった。
仕事人生で考えてみると、
「愛される能力」が高い人の方が若年期はお得に思える。
力が未熟のうちは周囲の愛に支えられるからだ。
自分は随分ヘタを打った様な気がする。
反対に中堅過ぎて後輩や部下ができると楽になってきた。
そこそこやれることが増えてきて他人に依存しなくてもよくなって、
逆に若い未熟な連中でも「愛すること」に躊躇はなかったからだ。
(非常にまれに絶対愛せない人は存在したけど。。)
結果的に自分の今のキャリアも、
人に愛されることに依存するのではなく、
人を愛することに重点を置いた形で成立している様な気がする。
顧客もパートナーも自分が愛せるかが選択上もっとも重要だ。
自分が一旦愛することができたら裏切られても自分の未熟と思えるところがある。
愛することに自信があるのかな。面白いもんだ。
キャリアでないライフで考えて見ても面白い。
自分も妻も「愛される」よりは「愛する」方が得意な気がする。となると、
両親の得意な「愛する」能力の発揮で娘は「愛される」ことを当たり前として育ち、
他者の愛を疑わないことで、より「愛される能力」を磨いていくのだろうか?
親と子供との関連性も能力の発達に影響を及ぼすかもしれない。
今まで自分は「愛すること」ができていれば
「愛されること」ができなくても全く問題ないと信じていたのだが、
子供を持つと話は変わってしまう。
子供には「愛されること」の良さも「愛すること」の良さも
どっちも知っておいてほしいと切に願ってしまう。。
親は欲張りだね。それが子供の負担になるのだろうな。